謝れる社会、許せる社会
韓国に住んでいても、日本のニュースは見ている方だと思っている。
そんな私が昔からずっと気になっているのは、メディアで頓珍漢な自説を披露して、それが大外れに外れたのにも関わらず、素知らぬ顔してその場に居座っている人の多いことである。
私は、朝鮮半島について学ぶ中で、古くは「北朝鮮は楽園だ」と言っていた人から、少し前は「北朝鮮は崩壊する」と言っていた人、最近では「韓国経済は崩壊する」と10年以上言い続ける人など、言葉を選ばずに言えば様々な「嘘つき」を目にしてきた。
また、コロナ禍における言論をめぐれば、PCR検査数確保への賛否や感染者数の予測など、時が経つ中でどちらが正しかったか、何が正しかったかも次第に明らかになっていく。
日本政府の行った政策でも、非難沸騰中の「Go Toトラベル」や少し前の「アベノマスク」など、状況の変化を見誤った政策が強行されている。
じゃあ自分の言説や政策が間違っていた際にどうすればいいのか。答えは簡単である。「間違ってました。ごめんなさい」と言って言説や政策を撤回すればいいのである。
なぜこれができないか。それは、自分の誤りを無視して、開き直った方が得だからである。社会で生き残れるからである。ごめんと言えば、自分の席がなくなる。謝ったら、負けのゲームに我々が生きているからである。
もちろん、犯罪は別で謝って許されるわけではなく法律で裁かれて罰を受けることになる。
これとは別に、言論の世界において、正直者がバカをみない仕組みを作れないかと考えてしまう。フェイクニュースがあふれる時代だからこそ、データでその人の発言の正統性を担保する仕組みができないだろうか。
振り返れば、一個人として自分もずいぶん間違ったことを言ってきた。間違いに対しては、素直に謝れる人間でいたいものである。
(漢江をジョギングしていて見つけた標識。東京まで1,158kmとあるが、いつ帰れるのだろうか。)
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